真面目なだけでは何の役にも立たない~いい加減な人が評価される理由~

教育

真面目な姿勢というのは大切なことです。勉強、仕事、私生活と色んな所でやることをキッチリと実行できる人々がいるからこそ、私たちの社会が回っています。

そんな多くの真面目な人々によって支えられている我々の社会ですが、中には『真面目だけど評価されない』という人も居ますね。もしかしたら、自分もその一人かもしれない。

筆者も大学生時代までは「真面目」がよく当てはまる人物でした。勉強にもスポーツにも頑張って取り組んできたと自負があります。

ですが、時として「いい加減な人だけど評価が高い」という人も現れます。

そして、そんな人に対して、時には嫉妬にも似た感情を抱いていたことを覚えています。

  • あの人は、いい加減なのに何で評価されているんだ
  • 遊んでばかりのくせに、何で私より評価がいいのか or 点数が高いのか

そんな経験から、「真面目さが取り柄」は役に立たないこと、「いい加減な人が評価される」理由は何なのかを書いていきたいと思います。

 

「真面目であること」は当たり前

 

まず前提として、我々の社会では「真面目である」ことは、そうであって当然ということです。

真面目に取り組むことは、ほとんどの人が当たり前のものとして実践しています。

いい加減に見えているあの人も、「自分の視野が狭いことで努力が見えなかった」「人の見えない所で努力している」かもしれません。

それに気づかず、「自分は他者と比べて真面目な人間である」という考えは我ながら傲慢であると思います。多くが当たり前として行っていることを自慢げに話したところで、「当たり前でしょ?」と一蹴されて終わりです。

「自分だけ特別真面目に取り組んでいる」というのは驕りであり、「他者の真面目さ」を軽んじていると私は大学時代の終盤になって気づきました。

真面目であることは当たり前―当たり前を実践しても何の取り柄にもならない―。



 

真面目が評価されるのは新人の時だけ

 

「真面目であることは当たり前」と述べましたが、その当たり前が評価される時期があります。

それは、始めて1~2年の新人の頃です。

新人は、技術・知識・経験が不足しているため、どうしても態度が一番の評価ポイントになってしまうからです。

しかし、社会人は年齢が上がるにつれて、求められる仕事のレベルが高くなっていきます。態度以外の評価と「できて当たり前」が増えていくのです。

そんな中、「真面目」しか取り柄がない人は、「真面目なだけ」という評価にしかなりませんし、後輩・年下からも後ろ指を差されることもあるでしょう。

真面目に続けることは大前提。その上で、真面目以外の取り柄や個性を身に付けることが重要なのです。

真面目なだけで他の取り柄を得る努力を怠ることは、真面目という名の怠慢です。

 

目的意識のない「真面目さ」

 

『真面目が評価されるのは新人の時だけ』では、「真面目なだけは怠慢」と述べましたが、では何故そのような怠慢が生まれてしまうのでしょうか。

真面目さというと、私は黙々と練習や勉強を積み重ねていくものと思っていました。

それがいつか実を結ぶと信じて、愚直に続けることが大切だと。

しかし、時には黙々とは程遠いような人に易々と追い抜かれ、同じことをやらせても自分より高品質かつ高速にこなせたりと、真面目さが実を結ぶという信条を否定されることも数多くありました。

私は、『一体何が原因なのか』と考えることが多かったです。

そうして見えてきたのは、私の実践していた「真面目」は、実に浅い考えであったということでした。

  • 同じことを反復するだけ
  • 言われていることをやっているだけ
  • 何も考えず、ただこなしているだけ

「ロボットかよ・・・」と思います。

一方で、私がいい加減と断じた人は、自主性に富んでいました。

同じことの繰り返しの間に、「より効率よくするには?」「自分の短所を克服する or 長所を伸ばすにはどうすればいいか?」という風に、考え続ける習慣があります。

同時に、反復の果てに何を得たいのかというビジョンがハッキリしています。

自分が実践していることの意味・目的をハッキリと認識している人間は、「言われたことを当然やりつつ、自分の目標のための行いもしている」ということに気づきました。

思考停止で、ただ数をこなしても得るものはありません。数をこなすにしても、「何のために数をこなすのか」という目的意識が根底あるからこそ、意味のある行為になりえるわけです。

そんな、目的意識の欠如が私を真面目なだけの人間にしてしまった原因でした。

  • 目的意識のない真面目さが、取り柄のない人間に育てる。



 

 

『良い加減』を身に付ける

 

「いい加減」と聞くと、私は「手抜き」とか「無責任」という意味で捉えています。

実際、普段の会話では「いい加減な人」は良い意味では使われませんし、間違ってはいないはずです。

しかし、必ずしも悪い側面ばかりというわけではないことを、理解し始めました。

「いい加減」の意味を調べてみると下記のようにでました。

  1.  仕事を最後までやり遂げずに途中で投げ出すさま。投げやり。おざなり。無責任。「―なやり方」「―な人」
  2. 相当な程度に達しているので、ほどほどのところで終わってほしいさま。「―に雨もやんでほしい」「冗談は―でやめてくれ」
  3. かなり。相当。「―いやになった」「―飽きがきた」
  4. 程よい程度。手ごろ。適当。「―の湯」「小物をしまうのに―の大きさの箱」

引用元:goo国語辞典

私が普段から思っていた意味は1番ですね。しかし、この記事で言いたいのは4番の意味こそが一番重要であるということです。

子思の思想に、「中庸」というものがありますね。何事もバランスが大事で、真面目過ぎるのもまたよくないのです。

要するに、力の入れどころをハッキリさせて、他はほどほどの力加減で取り組むということが大事だということ。

私が「だらしない人」「無責任な人」という意味でいい加減だと断じた人は、決してそのような人ではなく、力の入れどころを明確にし、求められた成果を出す人でした。

「いい加減」の意味をはき違えた私の視野の狭さ、狭量さが招いた的外れな評価だったのです。

「いい加減な人が評価される」というのは、決して「雑な人が評価されている」という意味ではありません

いい加減とは「良い加減」なのです。
「大事な場面を見極めて、結果を出す人が評価される」
=「良い加減な人が評価される」

「真面目」は疲れる

 

今になって思うと、「真面目」は非常に疲れます。常に肩の力が張っていて、余裕がない。そんな状態を続けていると心身ともに疲れてしまいいます

そんな疲れた状態で、大事な時に最高のパフォーマンスを発揮できるでしょうか。少なくとも私は想像つかないですね。

良い加減を身に付けられている人は、普段はほどほどの力で取り組んでいるため、余裕があります。

余裕があるというのは、言い換えれば肝心な場面で力を発揮する余地が残っているということ。大事な場面を逃さないため、結果を出せるのです。

また、真面目さというのは時に周囲にも同じことを求めがちです。他者の良い加減さを許さず、真面目であることを強要することもあります。

そんな事をすると、周囲の人も疲れてしまいます。自分だけ疲れるのであれば、自己責任ですが、他者を巻き込むことは害悪です。周囲を疲れさせるとチーム全体のパフォーマンスを落としてしまいます。

この記事を読んでいただいている方の周りで、ガムシャラであることが正しいと妄信的な人、異様に厳格な人は居ませんか?あるいは、自分がそうであるという覚えがあるかもしれません。

真面目さというのは、時に自分と周囲を疲れさせるため、加減を覚えないと大変なことになります。

今の自分に、どれほどの余裕があるのかというのを一度振り返ってみるといいかもしれません。

真面目さは、自分と周囲を疲弊させる。

「真面目な人」が評価されない理由と「良い加減な人」が評価される理由

さて、これまで述べてきたことを踏まえて、

真面目な人が評価されない理由と良い加減な人が評価される理由をまとめていきましょう。

「真面目な人」が評価されない理由

人間ですから、どうしたって感情が優先されることがあります。「この人とは一緒に仕事したくない」「扱いにくい」「接しにくい」そういった負のイメージは、評価を悪い方に引っ張ってしまいます。

人が人を見る指標は、数字や結果など客観的な要素だけではありません。個人の好み・イメージも影響されてしまいます。主観的な評価と客観的な評価は必ずセットでついて回ります。

真面目なだけの人が評価されないのは、「真面目以外の取り柄がない」という客観的な評価に加えて、「周りを疲れさせるという協調性のなさ」という主観的な評価の結果になります。

人を評価する指標は、主観的な要素と客観的な要素による総評である。

真面目な人が評価されないのには2つの理由がある。

  1. 主観的な要素:周りを疲れさせるという協調性の無さ
  2. 客観的な要素:真面目以外の取り柄がない

 

「良い加減な人」が評価される理由

一方で、「良い加減な人」はどうでしょうか。

私の知っている「良い加減な人」は、常に余裕を持たせる仕事をしていて、いざという時に力を入れて最高のパフォーマンスを発揮しています。

常に余裕を持たせているから、自分のミスも他人のミスもカバーもできるし、他人のミスに対しても寛容です。

※なあなあに済ますという意味ではありません。きちんと反省点を洗い出して、その上で次回から気を付けようというスタンスです。

話していて気が楽で、いざという時に頼りになる。そんな人良いイメージしか付きようがないですよね。

総じて、評価される理由は単純に真面目な人が評価されない理由の真反対です。

良い加減な人が評価される理由。

  1. 主観的な要素:周りと連携を取れる協調性
  2. 客観的な要素:いざという時に結果を出せるだけの積み重ねがある。

 

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まとめ

真面目であることは決して悪いことではありません。しかし、真面目なだけであることは良いことではないと私は思っています。

真面目であることは、社会人として当然のことで、当然のことを実施しても取り柄とは言えません。

大事なのは、真面目な社会生活を送るうえで、自分だけの取り柄・個性を伸ばすこと。

そのためには、常に考え、工夫するという主体性がポイントになってくるわけです。

良い加減な人というのは、その考える習慣を身に付けており、力の入れどころを見極めることができる人です。重要な場面以外は、ほどほどの力でこなし、いざという時に最高のパフォーマンスを発揮する。これが理想とも言えますね。

それができたら苦労はしないと思うかもしれませんが、だからこそ「常に考え、工夫するという主体性」を持たなくては始まらないのです。真面目なだけの人はそのスタートラインにすら立っていません。

真面目な人が評価されないこと、良い加減な人が評価されることには必ず理由があり、自分がどちらの要素を持っているのかを考えながら、身を振り返っていきたいですね。

 

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