「自分」とは何か~デカルトとクーリーによる自我研究~

社会

私たちは、自分という存在を認識して生きている。

しかし、自分というものは分かるようで分からない。分からないからこそ、大学生になって自分探しを兼ねた一人旅にでたり、社会人になって(もしくは大学生の頃から)自己啓発に励んだりと、自分を育てる行いをする。

現代における一般人の自分研究と言える。

一方、学問的な「自分研究」も昔から行われてきた。

デカルトの『我思う、ゆえに我あり』は、その代表と言えるほどの知名度だろう。デカルトによる自我の発見を基盤に、自分研究がこれまで進んでいる。デカルト以外では、ヘーゲルやフロイトといった人も有名である。

今回は、哲学のデカルトと社会学のクーリーによる研究を紹介する。

  1. デカルトの「我思う、ゆえに我あり」の意味
  2. クーリーの「鏡に映った自我」の意味
  3. おすすめの社会学・哲学の参考書

デカルトによる自我の発見

懐疑の果てに

デカルトの方法論は、懐疑であることから始まる。

懐疑とは、簡単に言ってしまえば、「ありとあらゆることを疑う」ということ。

彼は、この懐疑という方法を徹底して行い、その過程で「疑いようのない存在」とは何か、と問い始めるようになった。そして彼は、

「今まさに疑うという行為をしている自分」は疑いようのない存在であると答えを得る。

懐疑に従い、「自分の存在自体」を疑ったとしても、「疑っている自分」というものが存在していることになる。

そのため、『疑うという意識そのもの』が自分が存在しているという証明になるといった。

これが「自我」の発見である。

 

「我思う、ゆえに我あり」

上述した事を踏まえてみると、私たちが言葉の表面から受ける印象が変わる。

「我思う、ゆえに我あり」という言葉は、以下のような意味になる。

あらゆるモノの存在を疑おうと、疑う自分が居るということは否定できない。
ゆえに考え続ける限り、それが自分という存在の証明になる。

 

クーリーによる自我の発生条件の解明

 

デカルト批判

デカルトが自我の発見をしたのに対し、クーリーという社会学者は、自我が生まれる条件を解明した。

その際に、彼はデカルトの自我論には2つの問題があると指摘する。

  • 自我は、人間が生まれながらに持っているわけではない。
  • 「私」という側面を強調しているがために、視野が狭くなっている。

デカルトは自我を発見をしたが、彼の定義だと人間は生まれながらに自我を持ち、それが独立した存在であるということになる。

しかし、それでは視点が一面的過ぎると、クーリーは批判する。

そこで彼は自我と他者および社会との関係に注目し、自我が生まれる条件は「他者の存在」であると考えた。



 

クーリーの「鏡に映った自我」

「我々思う、ゆえに我あり」

子供は、いつから「私」という概念を持つようになるだろうか。

クーリーは、自分の子供が「私」という一人称を使うまで観察を続けた。その結果2年と2週間かかってようやく「私」と発したことを確認した。

彼が一人称に注目した理由は、一人称が「他者と自分を区別している」証拠と考えたためである。

自我とは、それ単体で独立しているのではなく、他者との関係(他者との区別)によって成り立っている。

子供が親の言うことを模倣しただけで意味を理解していない状態で発せられた「私」は、他者との区別がついていないので、自我の存在は認められない。

他者との関係で、自分と他者を区別する能力を身に付けるには、一定の時間を必要とすることを彼は知った。

そして、自我が発生するためには、自分とは異なる存在(他者)が居ることが必須条件であると考えたのである。

仮に、1人の人間が誰にも接触せずに(自分以外の存在を知らずに)生活した場合、「私」などと自分を指すことはしないだろう。

何故なら自分と区別するものがないから。区別する必要がないから。「私」という認識を持つためには、必ず他者との関係が不可欠になるのである。

つまり、他者の存在が必要で他者と自分を包括的に考えなくてはならない。ゆえに「我々思う」となるのである。

 

鏡と自我

自我を認識するためには、他者の存在が不可欠である。つまり、自分の力だけでは自我を認識できないということだ。

例えば、自分の顔を道具も使わずに見ることはできない。鏡やその代用品となる物を用いなければ、私たちは自分の顔を認識できない。

自我もそれと同じことで、他者を鏡のように向き合うことで自我を見ることができるとクーリーは言う。

他者と鏡のように向き合う=他者の反応を見る

例えば、子供が悪さをして、親が叱るという場面を想像してほしい。

子供は、親が怒る・叱るという反応を見て、今の自分が「悪いことをした人」なのだと認識できる。

学校のテストで満点を取って親から褒められると、今の自分は「良いことをした人」なのだと認識できる。

このように他者の反応を見ることで、今の自分がどのような存在であるのかを認識することが出来るのである。

鏡に映った自我というのは、「自分の存在がどのようなモノであるのか」を他者が鏡となって反応で示してくれるということ。

そのように示されることで初めて自我を認識できる。ゆえに、自我とは「鏡に映った自我」なのである。



第一次集団と自我

クーリーは、家族や遊び仲間のような、お互いに連帯感を共有する関係性(集団)を「第一次集団」と名付けた。

クーリー曰く、鏡に映った自我において、鏡の役割として重要なのは家族・遊び仲間の存在であるという。

特に重要なのは家族である。家族とは、個人が初めて接触する集団であり、その人の自我形成に最も深く関わる存在だからである。

クーリーは、第一次集団に3つの意味を込めている。

  1. 最初に経験する集団
  2. 互いに顔を直接見たり触ったりできる「Face to Face」の関係にある
  3. その人の社会性が規定される基本的な単位

これら3つを最もよく満たしているのが家族という集団である。

その家族との関わりが、後の自我形成に大きな影響を与えるため、第一次集団の存在が重要視されるのである。

これは私見だが、クーリーの理屈で言うとネグレクトは最悪である。

子供に対する無関心と無反応は、子供の自我形成を妨げる要因となりえる。上手く回復できずにいると、生涯影響を及ぼすことになるため、非常に悪質な虐待と言えるだろう。

 

自我が持つ3つの要素

クーリー曰く、自我には3つの要素があるという。

  1. 他人が、どのように自分を認識しているのかという想像
  2. 他人が、自分の行動をどのように認識しているのかという想像
  3. 1と2に対して、自分が感じる誇らしさや屈辱感といった感情

すなわち、クーリーにとって自我とは、「他人の認識を想像し、それによって生じる感情」の事を指している。

 

まとめ

デカルト

・懐疑の先で、「疑い続ける自分」の存在が自我の証明となりうるとした。そのうえで、「我思う、ゆえに我あり」という格言を残した。

・しかし、視点が自己本位的なため、視野が狭いとクーリーに批判される。

クーリー

・自我の発生には「他者の存在」が不可欠であると考えた。「他者の存在」に注目した点は、自己本位的な視点のデカルトとは正反対の考え方である。他者と自分を包括的に考える必要があるため、「我々思う、ゆえに我あり」が正しいと主張。

・他者の反応を見ることで自我を認識することが出来る→鏡に映った自我

・自我の形成に最も関わるのが第一次集団であり、特に家族が最も重要な存在である。

・自我には3つの要素があり、自我とは「他者の認識を想像し、それによって生じる感情」であると考えた。

おすすめの参考書

自己の発見―社会学史のフロンティア

哲学用語図鑑

超訳 哲学者図鑑

 

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