自殺というのは、昔から根深い問題である。
自殺研究が本格化してきたのは19世紀頃で、当時のヨーロッパは自殺率が急増し、なぜ人は自殺するのかという研究が行われた。
社会学者のデュルケムは、自殺問題に対し社会的事実によって自殺の実態を明らかにしたのである。
今回は、そんなデュルケムが提唱した『自殺論』の概要をまとめていく。
- デュルケムの自殺論の概要
- 自殺の4類型
- おすすめの参考書
自殺論の概要
現代において自殺として、電車に飛び込んだり、女子高生が自殺配信をしたりしてTwitterのトレンド入りしたりニュースで流れたりと自殺に関するニュースは度々流れる。
実は自殺に関して不思議な点がある。
自殺を望む人が次々と自殺してしまった場合、残るのは自殺を考えない人々なため自殺率は0に近づいていくはず。
にも関わらず、まるで示し合わせたかのように自殺者率は一定の水準を下回ることはない。
急激に自殺率が伸びたり下がったりするというあまりにも大きな変動をすることもあるのだが、ある水準を下回らることはほとんどない。
このような自殺率が一定の水準を保つ結果にデュルケムは注目し、何か個人に働く社会の力(社会的事実)があるのではないかと考えた。
自殺の類型
デュルケムは、自殺には4つのタイプが存在することを発見した。
自己本位的自殺
「自分らしさ」「自己責任」という規範が強く働いた時の自殺。
「自分らしく生きる」ことが求められる社会で起きやすい。
現代では、多様性を主張が活発である。
人種・文化・性別など様々な所で「自分らしく生きよう」とか「個性を大事に」という風潮が強まっているが、こういった風潮(社会的事実)が、かえって人に自殺という選択肢を選ばせてしまうよという話。
デュルケムが研究した内容を理解したうえで、なぜ多様性の主張が自殺につながるのかを考えてみよう。
プロテスタント教徒とカトリック教徒
ここからは、デュルケムが分析した話で詳細を説明しよう。
デュルケムは以下の内容に注目し自殺研究を進めた。
19世紀のヨーロッパ各国の自殺率で言えば、プロテスタント>カトリックという状況であった。
このような状況を分析するためには、プロテスタントの教えの特徴を理解する必要がある。
プロテスタントは、とにかく個人主義の要素がとても強いことが特徴である。
以下の3点を覚えておこう。
- 聖書主義
- 解釈の自由さ
- 万人司祭主義
1つずつ説明していく。
1.聖書主義とは
聖書が一番の権威を持つという考え方。教会の教えよりも聖書の教えを優先する。違いを一目で表すとするなら以下のようになる。
プロテスタント:聖書がトップ
そもそも、なぜ教会が権威を持つのかというと、聖書の内容を人々に伝える役割があるからである。
本来、聖書というのはラテン語で書かれており読める人が少ない。
なので、ラテン語を読める教会の人が読めない人のために聖書の教えを伝える必要があった。
聖書を読めない人にとって、教会の教え=聖書の教えであり、事実上教会がトップだったのである。
教会は、自身を通した一律の教えを伝えるため、カトリック教徒同士に聖書に対して共通の理解を持っている。
そのためカトリック組織としてかなり秩序が成り立っているのである。
つまり、教会をトップに置くピラミッド型の社会で成り立っているのがカトリックである。
一方、プロテスタントはというと、事の始まりはルターが聖書をドイツ語に翻訳したことから始まる。
ルターの翻訳によって、個人でも聖書を自由に読むことが可能となった。
教会を通さずとも聖書が読めるようになった結果、プロテスタント派という以下のような考え方を持つ人々が現れるようになる。
教会の存在は必要だが、トップに立てる必要はなく、あくまで聖書が一番の権威なのだと考えるのがプロテスタントである。
従来の考えだった「教会の教え=聖書の教え」を切り分けたのである。
2.解釈の自由
そして時は流れ、プロテスタントの中にもさらに派閥が生まれることとなる。
というのも、聖書を一人一人が読んで理解するということは、理解の仕方にも個性が生まれるということにつながる。
結果、教団や教派によって様々な解釈が生まれている。
3.万人司祭主義
聖書をトップに置くということは、必ずしも聖職者が必要というわけではなく、信仰する全ての人が儀式や儀式を行うことが出来るという考え方。
1~3の特徴を改めて見てみると、プロテスタントはは社会や組織よりも個人主義の要素が強いことが分かる。
デュルケムは、これらの3つの特徴をプロテスタントの社会的事実として突き止めた。
自殺する権利
個人主義というのは、自分で全てを自由に決められると同時に常に自己責任が付きまとう。
デュルケムは、この個人主義の要素が自殺に繫がっていると分析する。
「プロテスタント教徒とカトリック教徒」で解説した通り、19世紀のプロテスタントは、自分の人生や在り方を決められる自己決定が求められる規範があった。
自殺を実行するハードルを下げてしまうので、19世紀のプロテスタントの自殺率が伸びてしまったのではないかとデュルケムは分析している。
集団本位的自殺
自己本意的自殺が「権利としての自殺」であるのに対し、
義務としての自殺とはどういうことか。一言で表すなら、
権利の対義語が義務であることから察しがつくかもしれないが、自己本意的自殺と集団本意的自殺は対比される。
自己本位的自殺:極端な個人主義によるもの
集団本位的自殺:極端な集団主義によるもの
自己本意的自殺が個人主義の極限であるのに対し、集団本意的自殺は、極端な集団主義がもたらす自殺である。
人との繋がりが、弱すぎるのか強すぎるのかという違いだ。
多くは未開社会で見られることだが、例として以下のものが挙げられる。
- 武士の切腹
- 未亡人
切腹に関しては、主のために死なねばならないという殉死の意味もあれば、罪や失敗の責任を取るための詫びや贖罪としての意味、武士としての名誉を損なわずに死ぬための配慮としての自殺など、時と場合によって意味は様々である。
しかし、どれも社会からの「死なねばならない」という規範に従う自殺である。
未亡人は、中国に語源を持ち、字が意味する通り「未だ死んでいない人」という意味である。
昔の中国では、夫が死んだ場合妻もあとを追って死ぬという慣習が存在し、それに逆らって生きている妻への名称として使われていた。
つまり、古い意味では「(夫が死んだのに)未だ死んでいない人」ということになる。
アノミー的自殺
デュルケムは、自己本意的自殺や集団本意的自殺を明らかにする一方、これら2つの類型には当てはまらない自殺が存在することにも注目した。
不景気に自殺率が増加すると聞いて、不思議がる人は少ないだろう。
不景気によって極限状態に追い込まれたことによる自殺。
これは自己本意的な自殺のように見えるのだが、果たして本当にそうだろうかとデュルケムは疑問の目を向けた。
なぜなら、好景気の時でも同じくらい自殺者がいるからである。不景気に自殺率が増えるは不思議ではない。
では、好景気でも同じくらいの自殺率があるのはなぜだろうかと。
そのような疑問に基づき分析を進めたデュルケムが提唱したのが、アノミー的自殺である。
規範が崩壊する以下のような問題が発生する。
- 人々が何をして良いか分からず、精神的に不安定になる。
- 欲望が無限に膨れ上がってしまう。
際限なき自由がもたらす苦悩
私たちは、普段何かを基準にすることで自分が何をすべきか/何をしたいのかを決めている。
その基準は様々だが、代表的なのは性別とか身分が該当する。
学生は、学生という身分が社会に存在しているからこそ学生として振舞える。
さらに学生に求められる振る舞いは何かという基準もある程度共通の認識が存在し、それに沿って動いている。
そういった基準も何もないまっさらな状況で自由にやっていいよと言われると、何をやっていいか分からず意外と動けなくなったりする。
基準がないのだから何をしてもいいわけだが、選択肢が多すぎて選べなくなってしまうという話。
行動経済学で、棚に並べられている商品の数が多すぎると、かえって選ぶことが出来なくなることが明らかになったように、選択するというのは人にとって大変なストレスになるのである。
かえって選択肢に制約がある方が、選択のストレスが少なくなり、本人の意思で行動できるようになる。
では、アノミーになった時はどういうことだろうと考えてみよう。
繰り返すが、アノミーとは規範がなくなった(基準がなくなった)状況である。
このような状況になると、人々は膨大な選択肢を迫られることになる。
「この選択にはどういったメリットがあって、どういうリスクがあるのか」「そのリスクを取るか/取らないか」など様々な葛藤が当人にストレスを蓄積させる。
理想と現実のギャップ
規範には、人の欲望を抑える力を持つ。
だが、アノミーという規範が崩壊した社会では、欲望が増幅してしまう人が現れる。
そのような人は、理想と現実の差が大きく開いてしまい、もはや個人の力では埋められないほどの差になっていることに絶望し自殺してしまう。
急激な社会変動
デュルケムが注目した好景気だろうと不景気だろうと自殺者は常に一定数存在するという話に戻ろう。
好景気と不景気に共通するのは、急激な社会変動という点だろう。
突然これまでの社会とは別のモノとなってしまうと、これまで通用していた規範が通用しなくなることがある。
それは、上述したように際限なき欲望(選択肢)の重圧/ストレスを生み、同時に理想と現実のギャップを大きくする。
このような自殺をアノミー的自殺と呼ぶ。
自己本位的自殺との違いは、規範が存在するか否かである。
デュルケムの凄い所は、自己本位的自殺や集団本位的自殺の発見だけでは終わらず、アノミーという新しい類型を導き出した点にある。
宿命的自殺
宿命的自殺とは、過度に個人の意思や欲求を抑え込む規範に耐え切れずに起きる自殺を指す。
独裁政権の国や、身分制が強い力を持つ封建社会に起きやすいとされる。これは、アノミー的自殺と対比する自殺だ。
アノミー的自殺:個人の際限なき欲望
宿命的自殺:個人への過度な抑圧
この類型については、デュルケムはあまり語っていない(注釈に載せた程度)ので、デュルケムがどのような意味で用いたのかハッキリしないところがある。
そのため、宿命的自殺を類型に入れずに『自殺の3類型』という人もいれば、宿命的自殺を入れての『自殺の4類型』と言う人もいる。
日本の自殺率を見てみると
以下のグラフは、日本の自殺者数の推移を表したグラフである。
景気変動に応じて、自殺者数が大きく変動しているのが分かると思う。
この景気変動や社会の発展に応じて、自殺の4類型の働きが一部強くなったり弱くなったりして影響しているというわけである。
男女別に注目すると、女性は男性に比べて低い値を示していることが分かる。
これを「女性は精神的にタフなんだ」と片づけるのは簡単だが、学問的に考えるのであれば女性と社会の関わりに注目するとよいだろう。
例えばだが、社会的事実が自殺に関与するのであれば、この低い数値はそれだけ女性が社会の中心から遠ざけられていたのではないか、といった仮説を立てて研究するのもいい。
デュルケムの自殺論は19世紀の著書なので、その内容が現代に完璧に当てはまるわけではない。
責任の所在を、個人の側と社会の側の両面から検討するのが社会学である。その時、自殺論は思考の手助けとなるかもしれない。
おススメ書籍
まとめ
- 自己本位的自殺→個人主義が強まった規範に影響を受けたことによる自殺
- 集団本位的自殺→集団主義が強まった規範に影響を受けたことによる自殺
- アノミー的自殺→アノミーという状況に混乱し、現実に耐え切れなくなったことによる自殺
- 宿命的自殺→過度に個人を抑圧する規範に耐え切れなくなったことによる自殺
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